02









 自分の出せる一番の速さでトンネルの中を走り抜ける。走ることなら誰にも負けない。ペース配分も何も考えずにがむしゃらに走った。せまっ苦しく薄暗いトンネルの中。じめじめする。吸い込む空気が外のものよりも冷たい。自分の息が耳にうるさく感じ始める前に、開けた空間に飛び込んだ。
 流すように速度を緩め、歩くペースにして辺りを見回す。高い位置にあるステンドガラスの小窓から光が差し込み、地面にいくつもの色を落としている。忘れ去られたように置かれた古いベンチには、どんな人物が座るのだろう。
 更に進むと、建物が終わり、広い草原へと出た。自宅の裏山の先に、こんな所があるとは。知ってはいたが、見るのは初めてなのでどきどきする。
 「あっ、つ!」
 ちり、と目が熱く痛んだので俯いて強く目を閉じた。暗い所から急に明るい所に出たので、光に慣れなかったからだろうか。まばたきを繰り返して、生理的な涙を押し流す。
 吹き渡る風が頬に当たって気持ちいい。晴れた空は夏の濃い青で、雲はなかった。
 「やばい」
 声に出して、ひとりでにやけてしまった。
 「マジでわくわくしてきた」


 人気のない街の中を進んでいく。話を聞き、頭の中で思い描いていたものがそのまま目の前に広がっていて、初めて見るはずなのに初めてな気がしなかった。とは言え、見ていて飽きない。何を取り扱っているのか全く想像できない看板や、統一しようとは微塵も考えてなさそうな色とりどりな建物。
 無意味にジャンプして、ぶら下がっている提灯に触れて揺らしてみたりした。ふと、自分の行動が明らかに幼く思えて、そっと周囲を見回してみる。大丈夫、人っ子一人いない。というか、まずこの世界には人なんて自分以外いないのだ。そんな世界に来たなんて、あまり実感ないが。
 階段を一段飛ばしで登っていく。ずき、と鈍く膝が痛む。最近になって急激に背丈が伸び始めたせいだと思う。以前は整列すれば悔しくも前から数えたほうが早かったが、進学時に買った時はだぶだぶに余っていたはずの制服の丈が、この夏にはつんつるてんに短くなってしまった。必死にウエスト部分を下に押しやって履いているが、最高にダサいので、秋からの新学期までにはなんとしても新調してもらいたい。それを頼むと、彼の母親は「そうだねぇ」とため息をつくが、どこか嬉しそうだと思う。その母の背も今年の夏になって追い越した。たまに自分の骨の軋む音で夜中目が覚めることがある。


 ふいに漂ってきたいい匂いに、思わず腹がぐう、と鳴った。食べ物の匂いだ。しっかり腹ごしらえしてから来たのだが。
 「体力と食欲だけは無駄にあるんだよね」
 おかわりの茶碗を渡すたびに言われた母の言葉を思い出して、忘れていた不安が急に込み上げてくる。自分の身にこれから何が起こるのかということよりも、一人残してきた母のこと。
 まったくとは言わないが、あまり心配していないといい。ちゃんと食事を取って眠って、いつもどおり生活していて、笑って。ただ、帰りを待っていてほしい。


 階段を登り切ると、大きな灯篭があった。街中を通ってくる時も階段を登る時も意識して見ないようにしていた、左側を見た。
 息を呑む。
 目に飛び込んできたのは、壁を赤く塗りたくった巨大な建物だった。幾度となくせがんだ、母が話してくれる不思議な物語の舞台、湯屋油屋である。
 口をぽかんと開けて見入った後、感想を呟いた。
 「こんなデザインを考えたやつの気が知れない」
 腰に手を当てて片足に体重をかける。
 「あ、でも日常を忘れたい客にはちょうどいいのか」
 大きな煙突からは黒々とした煙が昇っているが、建物の中をひとが動き回っている様子は見えなかった。
 斜め掛けにした鞄を掛けなおして、いざ油屋に架けられている橋を渡ろうと踏み出した瞬間、ぎょっとした。足元に落ちる自分の影が、急に伸びていく。辺りの色も橙色を帯びたかと思うと、色彩の明度を下げるように暗くなっていく。ありえない現象に、彼は目を見開く。こればかりは、話に聞いていても現実では有り得ない。振り仰いで西の方角を見れば、先程まで高い位置にあった太陽が今まさに沈み落ちようとしていた。
 次々と提灯に明かりが灯されていく。街に光が広がっていく様子は落ち着いて見れば美しいのだが、その余裕のない彼はただただ驚くばかりだ。
 「うおっ」
 突如地面からぬうっと生えるように現れた黒い影に後ずさる。と、背後にももう一体いたらしい。振り替えれば、影はめり込んでしまった彼の腕に対して迷惑そうな顔をした、ような気がした。実際は、表情といえどもこれが目だろうなと思われる二つの光が並んでいるだけなので、定かではないが。
 「あ、すんません」
 影から腕を引き抜き(触れた感覚もなかったが)謝って、なんとなく気持ち悪かったので水気を切るように腕を振った。
 ゆらゆらと揺れる影は彼を珍しそうに見つめてくるので、彼もまじまじと見返してみた。向こう側、透けて見えるし、強い風が吹けば飛んで行ってしまいそうだ。一体何でできてるんだろう。
 その影の通して見えた油屋の中からもひとが出てくるのを見つけ、
 「じゃ俺、用あるんで」
言って影をよけて駆け出す。出てきたのは古典の教科書に載っているような服装をした、子供の背丈ほどのオッサンが二人だ。何か会話しながらこちらに向かって歩いてくる。
 「何か紛れ込んできたと?」
 「はい、父役。しかし人間ではないと…」
 「あのー」
 「人間ではない? 確かに人間の気配など」
 「湯婆婆様は、どちらかと言うとオクサレ様に近く、異質なものだと」
 「あーのー」
 「ふぅむ…。面倒なことにならんといいんだがなぁ」
 「すんませーん」
 「うるさいな。ちょっと静かにしてくれ!」
 やっと少年を振り返った父役と呼ばれた蛙顔のオッサンともう一人のオッサンは、ただでさえぎょろりとした目を更に見開いたまま固まってしまった。大きな口をぱくぱくと動かしている様は、腹話術の人形のようだ。
 「ひひひひひひ人か…?」
 「しかし兄役、こっこいつは…」
 二人とも情けなく裏返った声を辛うじて聞こえる音量で絞り出す。額には丸々とした汗が滲み出してきている。
 いきなりのこいつ呼ばわりに内心むっときたが、少年は笑顔という鉄火面を捨てなかった。この世界に来て驚かれるのは承知の上だし、自分のこの笑顔は武器になることを知っている。
 「こんばんはー。えとあの俺、コウっていうんですけど、昔ここで働いてたセンの子供です。ハクってひとに会いにきました。います?」
 ひとというものは一度に処理できる驚きの限界を越えると、呼吸、心拍以外の動きを一切放棄してしまうらしい。 冷たい汗だけを絶え間なく流したまま、動きをぴたりと止めた父役と兄役の顔面が蒼白になったのは、夕闇の中でも明らかであった。





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