03









 開店前の忙しさに加え、予期せぬ来客に油屋は右往左往だった。
 生まれたての仔鹿のように足をぷるぷると震えさせながらもどうにか立ち上がった父役と兄役に、とにかく中に入れと言われ、思っていたよりもすんなり油屋に入れてもらえたのは幸運だった。しかし番台の横に放置され、コウは今は居心地の悪さを感じている。父役と兄役は慌てふためいてどこかへ行ってしまった。
何より、話を聞きつけた従業員が続々と集まってきて、まるで見世物にされているようだった。周囲に群がるだけでなく、吹き抜けの上の階からもわざわざ身を乗り出して覗き込んでいる者もいる。落ちるぞと思った瞬間、バランスを崩して横にいた仲間に腰帯を引っ張られていた。
 「センの息子だって?」
 「確かに似てるね」
 「あの子どうしてる?」
 「今あんたいくつだい」
 「かわいい顔してるじゃない」
 「一人で来たのか? センは?」
 矢継ぎ早に質問され、目が回りそうだ。笑顔は崩さず、はあ、とか、十六です、とか適当に答えていたが、内心はそれどころではなかった。
 ハク。もうすぐ会える。考えるだけで心臓がばくばく音を上げる。
 「やっぱり父親はハク様なんだよな」
 ふいに足元の低い位置から聞こえた言葉にハッとする。見下ろすと蛙がいた。蛙顔、ではなく、あきらかに蛙だ。コウの膝の高さにも満たない大きさだが、一丁前に服を着て、水掻きのある二本足で直立している。
 「目がそっくりだもんなぁ」
 蛙はどこか懐かしそうに言うと、ケロケロと鳴いた。ぎょろりとした真ん丸の目が細められ、大きな口の両端が持ち上げられた。これが彼の笑顔らしい。
 すると急に周囲が静まり返った。本当は聞きたくて仕方がなかったのだろう。誰かが尋ねるのを待っていた他の従業員達も、コウの返事を興味深そうに待っている。
 「えーっと…」
 今ここで言うべきではない。まずはあの女主人に言うのが筋なような気がする。そう思って口ごもるコウに足元の蛙は気づかないようだった。
 「ハク様に会いにきたのか?」
 言って、蛙は初めて周囲の静けさに気がつく。どうした?と、ない首を傾げ、辺りを見回した。
 コウに視線が集まる。
 「その…」
 どう、答えるべきか。
 静寂を切り裂いたのは、幼い子供の声だった。
 「お前がコウか?」
 頭上から響いてきた、鈴を転がしたような声の主をコウは振り仰ぐ。階段の手すりに小さな手を乗せ、こちらを見つめている子供がいた。細く軽い金の髪が首の動きに合わせてふわふわ揺れる。山で見るたんぽぽみたいだとコウは思った。クセのある短い毛先はくるりと巻かれていて、コウと目が合うと胡桃色の瞳が微笑むかたちになった。
 「ついて来て。バーバに会って」

 身につけている衣服の質から、他の従業員、更には兄役や父役よりも地位が高いのだろうということがコウにもわかった。ここに来るまでも、何度か他の従業員に指示も出していた。
 乗り込んだ昇降機の中で、見た目と裏腹にやけに偉そうな口調の子供は「坊」と名乗った。母から聞いていた坊と目の前の坊の容姿が明らかにかけ離れていたので、初めは同一人物だとはわからなかった。目の前に立つ少年は、コウの胸ほどにしか背がない。
 「ウッソ…。だって母さんは坊はでっかい赤ん坊だって」
 「センがお母さんかぁ」
 坊は大きな目を瞬いて、不思議そうに呟いた。それから続けて言う。
 「坊は自然にこういうふうになったんだよ。じゃあどうしてコウはその姿なの? コウだって自然に今のコウになったんでしょ?」
 無垢な瞳で当然のように言われて、コウは思わず言葉に詰まってしまった。確かに、と納得せざるを得ないほど真っ直ぐな視線だった。
 上昇の動きや緩やかになり、機械音が停止して扉が開いた。床は隅々まで磨かれ、壁には色鮮やかな絵が描かれている。へぇ、と珍しげに見渡すコウに坊は笑う。慣れた様子で進み、扉へと手を掛けてコウを呼ぶ。
 「こっち。バーバがいるよ。センから話は聞いてるよね」
 「あ、うん」
 そういえば、母が幼い頃から坊は生きてるってことは、自分よりも坊のほうが年上なんだよな、と自分の前を歩く坊を見つめて思った。どう見たって坊のほうが子供なのに。いや、それ以前にこの世界と自分の暮らしていた世界は同じ時間の流れなのだろうか。長く謎だったので聞いてみる。
 「なあ。最後に母さんが帰ってからこっちではどれくらい経ってる?」
 坊は足を止めて振り返った。
 「たぶんこっちの時間の流れと向こうの時間の流れに、特に法則はないと思うよ」
 単純な答えでなくそれを通り越し、更にはコウの考えを読んだ答えだった。
 「法則?」
 「うん。こっちの一日が向こうの一年の時もあれば、向こうの一日がこっちの一年だったりするってこと。確かめようがないからあくまでも予想だけど」
 頭がこんがらがる。思ったからコウは頭をがしがしと掻いて苦笑して言った。
 「ややこしいな」
 坊が笑う。
 「ちなみに、センが帰ってからこっちでは十年経ってるぞ。でもお前の年とは合わないよね?」
 「俺は十六だから、向こうでは十七年経ってるよ」
 「十七年、かぁ…」
 坊がぽつりと呟く。センの顔は今でも思い出せるが、声は曖昧になりつつある。決して短い歳月ではない。常に甘やかすだけの母親と違い、時に厳しく叱り、時に頭をぐしゃぐしゃに撫でて褒めてくれた姉のような存在。
 「センに会いたいな」
 細い声で呟き、再び歩き出した坊の金の髪を見つめて、それに続くコウは腹の奥底からじわじわと怒りが湧き上がってくるのを感じた。きつく拳を握り締める。
 十年。十年も経って。

 その間、あいつは何をやっているんだ。





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